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2016-09-20 こう雨降りでは。。。 [池田の畑]

こう雨が降っては畑の仕事も益ない。
それでも蒔いた種の出具合を見ておかないと
と思って雨の中を出掛けた。
畝が高いところはよかったが
ちょっと手抜きをした畝は水に浸ってしまっている。
ヤバいな、どうしよう。
今更畝を高くもできない。
早く雨やんでくれと思うが
相変わらず大雨注意情報やら
土砂災害注意情報やら、、、

16号台風は雨台風か。

どうしようかしらん

こういう場合は悩むな、貰っちゃえ
アライグマどうしよ.jpg

2016-09-19 大事な声掛け [雑感]

「手伝いましょうか」よりありがたいのは…視覚障害者が本当に必要としている“声かけ”
からの引用記事>以下

去る8月15日、
東京メトロ銀座線の青山一丁目駅において、
盲導犬を連れた視覚障害者の男性がホームに転落し、
死亡するという痛ましい事故が発生しました。
 
 移動というのは、モビリティ(歩くなどの移動行為)と、
オリエンテーション(現在地と目的地の把握、移動手段の考察)
の組み合わせ.です。
 盲導犬の役割であり、できることは、モビリティのお手伝いのみ。
つまり彼らは、目的地までの経路まで考えているわけではない。
盲導犬の仕事は、モビリティーの障壁を教えること。

 これまで「声をかけないでください」という啓発活動はやってきましたが
 「声をかけてはいけない」という認識が違うことを今回知って頂きたい。
それは盲導犬に対してであって、人に対してではない。

盲導犬と歩いている人に対しては、
むしろ積極的に声をかけていただきたい。
「信号が青になりましたよ」と声をかけるだけでも、安心感に繋がる。

目が見えないユーザーは
自分に対して言われていると気づけないことがあるので、
気づかなかった場合は
「“盲導犬を連れている方”何かお手伝いできることありますか?」と、
明らかにユーザーに対しての声かけだとわかるようにすれば
その後のやり取りがスムーズになる。
声をかけてから、ユーザーの正面に回って話す。
右や左から話しかけられて体の向きが変わると、
どこが正面なのかわからなくなる。

迷わずに声かけをしていただきたい場所は、
交差点。
信号があってもなくても、道を渡ろうとしていれば是非声かけを。

もう1つは駅。
特にホームは電車だけでなく色んな音が反響しているので、
自分の現在地や方向を把握しにくく、とても危険を感じる場所。
ホームギリギリ、落ちてしまうのではないかなど、
危険を感じた時は「ストップ!」と声をかけ、
本当に危険な場合は少し強引であっても止めてください。
バス停などで「どちらまで行かれますか?」と声をかけ、
「○○行きのバスが来ましたよ」と教えられると助かる

コンビニなどで買い物の案内をする際、
例えば「新商品の○○が入ったおにぎりがありますよ」など、
ちょっとしたプラスの情報があると助かるという声も。
そして、声をかけられることで一人ではないと感じられるので、
何より嬉しい。

人の力が安全につながる
以上引用終わり

ツレにもこんな風に声掛けし続けるってこったいね。
私にもできることがある。
 教えてアゲルにゃ
sokonya.png

2016-09-18生きる意味 [雑感]

2014-09-12 のブログ記事
ハマコウさんから頂いた記事ですが
なぜか思い出されてもう一度載せます。

こころの時代 「人生はあなたに絶望しない」 永田勝太郎
 『ラジオ深夜便』より 2008年〈再掲載〉

医師の永田勝太郎さんは、
1948(昭和23)年生まれ。
20年前、永田さんは、医師としての岐路に立たされていました。
そんなとき、オーストリアの精神科医
ヴィクトール・E・フランクル博士(1905~97)の
著書『夜と霧~ドイツ強制収容所の体験記録』に感銘を受け、
ウィーンに住む博士を訪ねて交流を続けました。
永田さんが提唱している「全人的医療」は、
フランクル博士が強制収容所という
極限状況の中から導き出した「人間とは何か」という、
深い洞察に支えられているのです。 

[聞き手 鈴木健次」>

◇人間の可能性を信じることの大切さ

―まず、フランクル博士について簡単にご紹介いただけますでしょうか。

永田 
フランクル先生は、オーストリアのウィーン生まれ。
ユダヤ人であったために、第二次世界大戦中ナチスドイツによって、
ポーランドのアウシュピツツ強制収容所に
捕虜として捕らわれた経験をお持ちです。
収容所では、冬でもシャツー枚、ズボンー枚の生活で、
食事といってもパンー枚と塩水のようなスープだけでした
当然のごとく、次々と餓死者が出ます。
その中で先生は、あることに気づきました。
それは、弱っていく人に
自分のたった一切れのパンを与えることができる人がいる一方で、
けだもののように人のパンを奪って食べてしまう人がいるということでした。
この違いは何によるものか。
先生は観察を続けました。その結果、
人にパンを与えることができる人たちは、自分の「生きる意味」を
心の中にしっかりと持っていた人たちであることがわかりました。
どんなささやかなことでもいいんです。
まだ成人前の子どもがいるとか、やり残してきた仕事があるとか、
きわめて日常的なことなのですが、
「これをやり遂げるまでは死ねない」ということ、
それがフランクル先生の言う「意味」なのです。
先生はそのことをアウシュピッツという煉獄の中で自ら体験し
ポケットに忍ばせたカードに速記で記録し
精神医学の見地から学問的に実証された方です。
戦後になって『夜と霧』(日本での初版は1956年)
という本にまとめられましたが、
人間の可能性を信じることの大切さを主張するこの本が
戦後世界に及ぼした影響は、大変に大きなものがあります。

―永田さんがフランクル博士と交流することになったきっかけをお聞かせください。

永田 
20年前、私は東京のある大学病院におりました。
ところが、そこでいろいろな事件に巻き込まれて、
いわば失脚するようなかたちで大学を追われてしまった。
地方の小さな病院で医師としての仕事は続けましたが、
自分にとってこの職業がどういう意味を持つのか、
深く悩んだ時期が続きました。そのとき、
高校生のころに読んで感銘を受けた『夜と霧』を読み返しましてね。
非常に得るところが大きかったわけです。
フランクル先生の確立された実存分析という学問を
勉強したいと思った私は、先生に手紙を出しました。
すると先生はすぐに、「ウィーンにいらっしやい」という
返事をくださったので、私は飛んで行きました。
先生は両手を広げて私を迎えると、
「私にできることは?」とおっしやってくださったのです。
先生の考え方の根底にあるのは、深い人間愛なんですね
。非常にユーモアにあふれた方で
どんなつまらないことでも笑いに変えてしまう特技をお持ちでした。
それはやはり、生と死の境を生き抜いてこられた
体験をお持ちだからこそではないかと思います。
以後、先生がお亡くなりになる97年まで、
私は何十回もウィーンにうかがっております。

◇絶望の淵から

―フランクル博士は、夫人をアウシュビッツで亡くされていますね

永田 
はい。最初の奥さまは、ガス室の犠牲になっています。
しかし戦後、生涯の伴侶となるエリーさんと運命的な出会いをされて、
再婚なさいました。

―永田さんはそのエリー夫人から、
「人生はあなたに絶望しない」という
フランクル博士の言葉を贈られたそうですね。

永田 
はい。実は十年ほど前、私は大きな病気を患っております。
ある日突然、末梢から筋肉が麻蝉してくる病気で
、寝たきりになってしまいました。
主治医からは、「治療方法はない。
もう車いすで生活することも無理だろう」とまで言われました。
 ある温泉病院に入ってリハビリを続けたのですが、
ちっともよくなりません。部下の局員はどんどん辞めていき、
とうとう誰もいなくなってしまいました。
何か自分が見捨てられたような、絶望的な気持ちでしたね。
花を見ても、「来年この花が咲くころには、
心はこの世にいないのだ」と思ってしまう。
そのころ、フランクル先生はすでに亡くなられていて、
私はエリーさんに手紙を書きました。
「エリーさん、さようなら。僕は不治の病になってしまった。
僕は先生のもとへ行くよ」
するとエリーさんからすぐに返事が届きまして、
こう書いてあったんです。
「私はあなたに何もしてあげることができない。
でも、生前フランクルがいつも私に言っていた言葉をあなたに贈ろう。
『人間誰しも心の中にアウシュビッツ(苦しみ編集部註)を持っている。
しかしあなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない。
あなたを待っている誰かや何かがあるかぎり
、あなたは生き延び<ることができる』」
私はその手紙を何百回も読み返しました。
時を同じくして、私が教えていた学生が何十人も押しかけて、
 「先生、早く大学に戻ってきてください」と励ましてくれたり、
「先生が実践されている全人的医療を勉強したい」と
申し出てくれるドクターたちが現れました。
そして家族の存在。
「よし、もし命を長らえることができたなら、
残りの人生を医学教育に捧げよう」と、私は決心したんです。
 それからは、リハビリのメニューを3倍にしてもらいました。
加えて、生命力を高めるために
東洋医学的な方法も治療に取り入れました。
 その中で、すばらしい鍼灸師の先生に出会いましてね。
私が「ちっともよくならない。どうせ死ぬんだ」 と愚痴を言うと
、先生は一緒に泣いてくれたんです。
その先生が示してくれた共感とエリーさんの手紙を
心の支えにしながら必死に努力して、2年後、
私は大学に復帰することができました。

―フランクル博士の言う「生きる意味」を、永田さんご自身が実体験されたのですね。

永田 
病気のあと、患者さんへの対応が変わりました。
私たち医師にとって、死と隣り合わせの患者さん、
「生きる意味」を探そうにも探せない患者さんに
共感することは、実は大変難しいことです 
しかし、私は自分の経験を通して、どんな状況に陥っても
そこから逃れる方法は必ずあるということを、患者さんたちに伝えられる。
それが今の私の役割かなと思っています。 
ですから、「私はいつ死ぬんですか」とびくびくしている患者さんには
、カルテを閉じてこう言います。
「いいかい、これは医者として言うんじやないよ。
僕は三途の川まで行ってきたけど、こうして戻ってきた。
そして、今、生きている。あなたも今、生きているじゃないか。
あなたにも、『戻ってくる自由』があるんだよ」。

◇全人的医療と現代医学

―先ほどおっしやった「全人的医療」は、
人間の心理的な側面を重視する医学と考えてよろしいのでしょうか。

永田 
そのとおりです。現代医学は高度に進んだ科学である半面、
人間を臓器や細胞、場合によっては
DNAのレベルにまで専門分化しすぎたきらいがあります。
 しかし、それでは人間というものはわからない。
人間はもっと総合的な存在です。
そのような視点に立って、ありとあらゆる科学的な思考を
一人の患者さんのために投入する。
それが、私どもの目指す全人的医療です。
現代医学は外科的な手術や放射線療法、抗がん剤治療、化学療法
といったようなどちらかというと体の中にある問題点を除去する
方法論にすぐれています。一方、
ある臓器が弱っても、他を活性化して全体のバランスを
とればよしとする考え方が東洋医学的な考え方。
それから、
体が病気になれば心も病気になってしまうから、
心をしっかりと支えていこうというのが心身医学の考え方です。
フランクル先生の実存分析は、
そこに人間を生かしている「意味」という概念を取り入れることによって、
その人が自分の能力以上の力を出せるよう
支えていこうという考え方
ですね。
そういったことをやっていきますとね、
人間というのはけっこうすごいパワーを示すことがあるんですよ。
私どもの病院には、末期がんの患者さんも多いのですが
、中には奇跡としか表現できないような
回復をされる患者さんがおられるわけです。
 そのことを現実のこととして受け止めて、
なぜその人が回復したのか、
科学的に実証してゆかなければならないと思っています。
これはわれわれの研究でわかってきたことですが、
面白いことに、「生きる意味」に気づいたとき、
人間の脳は生命力を活性化するホルモンを分泌するんですよ。
つまり、単に心理的に元気になるだけでなく、
身体的な反応として生命力が活性化する。
まだ発展途上ではありますが、医学の可能性を
大きく発展させることができる考え方ではないかと思います。
逆に言うと、それがわれわれの仕事ではないかと考えているんですね。

◇だれにも。生きる意味がある

―具体例をお聞かせいただけませんか。

永田 
15年ほど前のことですが
東京の大きな病院で筋ジストロフィーと診断されて
医師から「余命半年」と宣告された男性の患者さんが
私どもの病院に来られました。私は彼に
「今、あなたは生きているし、
こうやって東京から浜松まで来ることもできた。
 『あと半年』と言った医者は神さまじゃありません。
まず体をしっかりケアしましょう」と励ましました。
彼は病気のために
コンピューターのキーボードを押すこともできなくなっていましたが、
それはリハビリで機能回復するしかありません。
 そこで彼は、太極拳を習い始めたんです。
その後、彼はみるみる健康を回復していきました。
今では太極拳の最高段位を取得して、弟子が150人もいます。
彼の場合、リハビリのために始めた太極拳が
「生きる意味」の1つになったんですね。

こんなケースはいくらでもあります。
キューブラー・ロスというアメリカの精神科医で
やはりフランクル先生の影響を強く受けた方が、
こういう言葉を遺しています。
「人間とは、その死の瞬間まで成長する可能性のある生物である。
その可能性を、 われわれ医師は奪ってはならない」
患者さんに対して「余命何か月」などと軽々に言うことは、
医師として厳に戒めなければならないことだと私は思います。

残念ながら亡くなってしまわれた例ですが、
50歳のある女性のケースもご紹介したいと思います。
彼女はお父さんを早くに亡くされて、母親と二人暮らしでした。
そのお母さんががんになられたので、
彼女はずっと介護をしていました。
しかし、お母さんもついに亡くなり、
ほかに身寄りのない彼女は一人ぼっちになってしまった。
そんなとき、今度は彼女自身が子宮がんであることがわかりました。
彼女は放射線療法を受けました
ところが、治療中に大出血を起こして、
医師からは、「これ以上あなたにできることはない。
ホスピスヘ行ってください」と言われたそうです。
しかし、ホスピスは満床で一か月待ち。
そこで彼女は考えたんですね。
「私の人生、ちっともいいことがなかった。
死ぬ前くらい、どこかの温泉にでも行こう」
そのとき彼女が選んだのが、
たまたま私どもの病院がある浜松に近い舘山寺温泉でした。
それから一週間後、彼女は激しい痛みのために
ベッドの上で動けなくなってしまった。
病気が急速に進行したんですね。
女将から連絡を受けて、私はとりあえず、
症状を緩和する治療をしました。しかし、
この人を救うにはどうしたらいいのか、
私にはわからなかったんです。
彼女はもう死を覚悟しているんですよ。
天涯孤独になってしまった。この人の「生きる意味」は
いったいどこにあるのか、見つけられないんです。
私は暗澹とした気持ちで彼女を診ていました。 

ところがある日、

一人の男性が彼女の車いすを押しているんですね。
「この方はどなた?」と聞くと、彼女はニコニコしながら、
「先生、この人はね、私の幼なじみなんですよ。
私、この人にプロポーズされたの」って言うじゃないですか
それはもう驚きました。
その男性は昔からずっと彼女のことが好きで、
彼女が病気と聞いて駆けつけて来たんだそうです。
そして、これがもう最後のチャンスだと思って
彼女にプロポーズした。彼女も考えた末に、
彼の申し出を受け入れることにしたんですね
彼女はこう言っていました。「先生、私、死ぬのやめた!」。
2年後、彼女は亡くなりました。しかし、
ホスピスではなく、彼の腕の中で。 
たった一年間でしたけれども、その一年間は
他の人の50年に匹敵するような、
すばらしい一年だったろうと思います。 
人間は、一生懸命「意味」を見つけようとしていれば、
必ず見つかるんです。そのことを、
彼女は教えてくれたのだと思います。


◇「あきらめない医療」

―末期がんやそのほかの重篤な病気に限らず、
糖尿病や高血圧などにも、フランクル博士の考え方は適用できるのでしょうか

永田 
もちろんです。たとえば糖尿病の患者さんの場合
食事療法を避けて通れませんね。 ところが、
食事療法は実行するのが実に難しい。
自分が慣れ親しんだ食習慣は 簡単に変えられないものなんです。
ですから、例えば高齢の糖尿病の患者さんには、
私はこういうことを言います。「○○さん、確かお孫さんがいたね。
5歳? そう、かわいい盛りだね。でも○○さん、
こんなに血糖値が高いでしょう。
そのうち目が見えなくなっちゃうかもしれないよ。
その前に、心筋梗塞を起こして、あの世に行ってるかも。
お孫さんの 成人式、あの世から見てもしょうがないでしょう。
その目で見届けないと」。つまり、
自分のためでは行動変容できなくても、
お孫さんのためなら行動変容できる。
その方を生かしている「意味」を刺激すると、
「食事療法をやってみよう」という気持ちになってくださるわけです。 
フランクル先生は、こんなこともおっしゃっています

「どんな人間にも必ず生きる意味がある。ただし、
多くの人たちがそれに気づいていないだけだ。
医療職の役割は、それを患者と一緒に気づくことだ」。
私たち医療職がすべきは、まず、その人の病気を丁寧に診察し
検査をし、状況を判断すること。そして、あきらめることなく、
患者さんの「生きる意味」に一緒に気づいていくことなんです。

―これからの医療に最も必要なこととは、何でしょうか。

永田 
専門性の高い医療ももちろん大切です。
しかしその前に、全人的に患者さんを理解する医療を
広めていかなくてはなりません。 
全人的医療は患者さんに共感するところから始まるのですが、
これがいちばん難しいですね。しかし、
それができないと、患者さんを理解することはできないわけです。
全人的医療とは、患者さんの体、心、社会環境、生きる意味、
この四つを総合して診ていくことです。残念ながら、
まだそのための教育は十分とは言えません。
フランクル先生は亡くなる前、私にこういう言葉を遺されています。
「永田君、僕はもう十分に生きた。ただ、一つだけ心残りがある。
自分の学問が医学の分野でもっと浸透してほしかった」
今後も医学教育にもっともっと努力していかなければなりません。
それからもう一つ、今、
自分の命も、他人の命も 粗末にする人たちが多いですね。
 その人たちは
自分の命の可能性に自信がないのだと思います。
これはもう、家庭教育、学校教育だけの問題ではなくて
国民全体の問題です。 
私たち一人一人が自分の可能性を信じて、
希望をしっかり持って、変えていかなければならないと思います。
                                              
 (2008年9月23・24日放送)

以上引用終わり
相模原の事件のことがあり、
いまはじめようとする高齢者の居場所づくりのこともある。
今人が生きる意味をもう一度問い直している。
kyouhananisurunya.jpg



















2016-09-17 「実家」再見学 [池田の畑]

「実家」を手に入れる段取りが煮詰まってきた。
今日は協力してくれる人と一緒に3度目の見学。

「ワァ、すごぉい。綺麗ですねぇ」
部屋をきれいに片づけ
お掃除も行き届いているという意味の綺麗。

「これなら何にも手をくわえなくても大丈夫。」
と言ったのは家具職人で
吉野家書店という名前の
カフェギャラリィをしているお兄さん。
裏の蔵の中身を見て、
「これはいろいろ使えそうですねぇ。」
と嬉しそうに言う。
たんす.JPG

米蔵の仕掛けを見ながら
水瓶.JPG
「これ使わせてもらえたらいいなぁ。」といったのは
無農薬のお米をつくっているAさん。
右のほうには水瓶がある
左端にモミの保存の板仕切り

こちらもただ見せるだけじゃなく
実際に使ってもらえたらと思っている。と
喜んで借りてもらいたい旨を伝える。
「味噌樽もこれだけあったらみんなで作れる」と
これまた喜んでるのがMさん。

漬物つくりの好きなおばちゃんや
おふくろの味、晴れの日の料理を作ってくれるおばちゃん
そんな人をスカウトしてきて教えてもらいながら
みんなで食べられたらいいなぁ。

遠くからの来客、、、というより
実家のない都会の人の故郷みたいになれたら
と、思いは一杯広がってくる。
母屋と蔵の間を流れる小川
小川.jpg
つくばい.JPG
ツクバイ?
井戸跡.JPG
井戸の跡。



あと2か月後には実現する。
嬉しい。

続きを読む


2016-09-16 土手下の畑で [雑感]

中学校西の畑>
カナブンどころじゃなかった。
これ さつまいも。
P1020933.JPG

うらがえすとこんな残念なことに
P1020934.JPG

去年もしっかりネズミにかじられたのを思い出した。
近くのものはやられていると考えて、
育ちが悪そうな葉ぶりだったが掘ってみたら
案の定、小さいのにやはりかじられている。

去年は2丁目のサツマイモが結構大きくできたので
鼠にかじられた中学校西の畑の方は
品種は違っていたものの、まぁいいかと諦めたのだが。
今回は2丁目は畑を返してしまったのでこちらにしか物がない。
ここでとれなきゃ食べられない。
というわけで
鼠に食べられる前に人間様の口に入れなくちゃと
もう大きさにかかわりなく半分掘り上げた。

しかし小さいなぁ。
ふつうは1日くらいは干してからなのだが
待ちきれず味見。
小さいけど甘かった。
今年は日照り続きだったせいか。

それにしてもこれは元が取れそうにない。

こちら先日掘った里芋。これはまぁ元を取ったかな。
satoimo.jpg

土手下の畑>
芽が出る前水分が欠かせないというハァブ類
幸い雨続きだったので出たかな、、、って
これかみつれの芽かしらん。
かみつれ.JPG

一斉に蒔いたその他の野菜。
大根は結局色が変わってしっかりしそう。
大根.JPG

これは春菊、、だよなぁ。
春菊.jpg

野沢菜
野沢菜.JPG

ほうれん草
ほうれん草.jpg
大根以外は今回全て買った種。
だから一応発芽はいいのだ。

ところで土手下の畑で写真を撮って手入れしていると、
散歩のご夫婦から声をかけられた。

女性のほうが
「病院入院中で外出許可が出て運動に歩いている。
よくやりますね、一人でこれだけ耕したんですか」と
私に年齢を聞く。

67歳というと
「えええ?とのけぞりながら
首を大きく振って私まねできない」と
目を丸くされた。

少し鼻の先がぴくぴくしたような気分だ。

いや、この辺でこの年なんてひよっこで
お隣のおばぁちゃんなんかもうじき90になろうっていう人が
畑に毎日出かけてきちゃ鍬ふるってるし。
そんなに驚かれたら恥ずかしい。
というと

「いやいやそれでもこちらが恥ずかしい。」と。

夫さんもにこやかにうなづきながら
「ガン張りますねぇ。でもこんなに作ったら食べきれないでしょう」
というので
いや余ればこれからやろうとしている
高齢者の居場所の「実家」の食事作りに
使おうと思ってますからと
ツレの話やら「実家」の宣伝をしたが
町外の人だった。

「いいことしますね。ここ散歩できますからまたね」と
言って土手を仲良く登っていく夫妻を見送りながら
今度はちょっと鼻の奥がムズムズした。